『火山と革命』

アレクサンドル・ワノフスキーの生涯

Alexander Vannovsky

 

1874年、帝政時代のロシアに生まれる。父は退役大佐、母は大地主の娘。

学生時代から革命運動にかかわり、ソ連共産党の前身政党の結党大会に参加。

逮捕され、3年の流刑。

1910年、革命運動から離脱。 

1919年、日本へ渡航、そのまま定住し亡命者となる。早稲田大学ロシア文学科講師となり、20年ほど勤務。

81歳のとき、『火山と太陽』を出版。

1967年、93歳で死去、高尾霊園に葬られる。

 


 

 歴史の舞台の登場人物として

 

 一八九八年、ソ連共産党の前身をなすロシア社会民主労働党を創設するための会議がミンスクという町で秘密裏に開かれた。しかし、ほどなく結党大会のことは露見し、参加者九人をはじめ多くの関係者が逮捕されている。しばらくの間、政党活動らしいことはなにもできなかったらしい。現在では歴史のひとこまとなっているミンスクでの結党大会の参加者のひとりに、『火山と太陽』の著者アレクサンドル・ワノフスキーがいた。レーニンはこのとき逮捕され流刑中だったので、結党大会には参加できなかった。ソ連において国家の最高決定機関であったソ連共産党大会は、この秘密会合を第一回大会として起算されている。

 アメリカの政治学者フレデリック・シューマンの『ソヴェトの政治』には、ミンスク会議の参加者としてワノフスキーの名前が記されている。八十歳を過ぎたワノフスキーは東京都世田谷区で一人暮らしをしていたが、あるとき、『ソヴェトの政治』に彼の名を発見した知人であるジャーナリスト岩月慎二郎氏にそのことを告げられた。すると彼は、子どものように無邪気に笑い、「実は若いころ、革命運動に従事していたのです」と話した。なぜ、革命運動から離れたのかという問いにはあいまいな答えしか返さなかったという。ただ、当時のソ連の政治状況については悲憤慷慨はなはだしく、「目をむき、唾を飛び散らし、聞いていて辟易するほどの激しさでした」と岩月氏はそのときの様子を話してくれた。

 ミンスクは現在、ソ連崩壊により独立国となったベラルーシの首都となっている。結党大会が開かれたのは、緑色のペンキで塗られた木造の一軒家だったが、第二次世界大戦中に焼けてしまった。ソ連政府によってロシア革命を記憶するための歴史的遺産として建て直され、小さな博物館として存続している。日本語では「第一回会議場博物館」と訳される。観光スポットとして紹介されることもあるが、ベラルーシを訪れる日本人が少ないうえ、ここまで足を運ぶ奇特な人はめったにいない。しかしこの博物館に足を踏み入れた日本人は、思わぬ歓迎をうけて驚くことになる。二〇〇七年にここを訪れた藤井陽一氏もそのひとりである。

 当時、藤井氏はソ連の外交政策などを研究する大学院生だったが、「ペンフレンドに会うためベラルーシを訪れ、この博物館に案内してもらった」という。日本からの来訪者だと知ると、博物館のスタッフは、秘密会合の参加者のひとりが、その後、日本に渡って亡命者となった──という説明をはじめた。これまで聞いたことのない話で、ロシア革命と日本が意外な形で結ばれていることに藤井氏は驚いた。

 その一軒家にはいくつかの部屋があり、そのうちのひとつには会議当日の様子が再現されていた。別の部屋には九人の参加者一人ひとりについて顔写真と経歴が書かれたパネルがあった。ワノフスキーについては、この革命政党ではレーニンとは別のグループに属していたこと、日本に亡命して大学の教員をしていたこと、東京都の墓地に永眠していることなどが説明されていたそうだ。  

 

      ロシア革命の幼年期

 

 ワノフスキーは一八七四年、モスクワの南方にあるトゥーラ県で生まれた。鉄鋼産業、軍需産業の歴史によって知られる工業都市である。父親が退役の陸軍大佐、母親は大地主の娘だったというから、社会階層的には上のほうである。ワノフスキーは陸軍士官学校に進み、短期間、軍務についたあと、モスクワ工芸大学で学んだ。そのころはロマノフ王家によって運営されていたので、いわば王立大学だが、今日のバウマン・モスクワ工科大学の前身をなすロシア有数の理工系の高等教育機関である。

 彼の兄は革命運動のひとかどの指導者で、レーニンの兄と行動をともにした時期もあるらしい。ワノフスキーはこの兄の影響によって社会改革を目指す道に入った。マルクス主義を信奉する学生団体を組織し、ワノフスキーはそのリーダーだった(自伝「小さな種が巨木となった話──第一回ロシア社会民主労働党大会の回想」)。

 ロマノフ王朝の専制政治の打倒を目指すロシアの革命運動は、一八六〇年代からの長い前史があるが、当初は農村からの社会改革を志向するナロードニキ運動がその主役であり、都市の労働者を糾合しようとするマルクス主義の運動が広がるのはずっと遅かった。ワノフスキーが革命運動にかかわるようになった一八九〇年代は、ロシアにおけるマルクス主義運動の勃興期で、小規模のグループが各地に点在していた。そうしたグループが合流して、全国規模のマルクス主義政党を結成しようという機運が高まり、ミンスクでの結党大会が実現した。離婚した妻の姪にあたるミーラ・ヤコベンコによって書かれたワノフスキー伝記『夢追う人』に、当日の様子が書かれている。

 

     参加者たちは一人ひとり、さまざまな道程で、さまざまな時間にやってきた。本屋で合い言葉をかけ合い、次に彼らは集合場所、つまり鉄道員ルミヤンツェフの家に案内されていった。ルミヤンツェフは家の半分を家主から借り受けていて、彼の妻の「名の日の祝い」ということで、客を招待することになっていた。家の中は祭りのように飾られていて、カルタがさりげなく置かれてあったテーブルはクロスで覆われ、サモワールは音を立てて沸き立っていた。ペチカはいつも燃えていて、もしも突然、憲兵に踏みこまれた時、秘密文書をすぐさまくべてしまう手はずになっていた。     

    

 大会は三日間に及んだ。「ロシア社会民主労働党」として大同団結をはかることが決まり、結党宣言が採択された。ワノフスキーはこのとき二十四歳。参加者のうち、いちばん若かった。参加者全員が逮捕されたのだが、裁判の結果、ワノフスキーはモスクワの北五百キロ、北海に近いヴォログダ州への流刑が決まった。

 この流刑地は政治犯のインテリゲンチャであふれていたので、皮肉とユーモアを込めて、「北のアテネ」と呼ばれていた。政治犯たちはある程度、自由に交際することができたようで、集まっては議論に花を咲かせた。

 ずっとあと日本での亡命生活のなかでワノフスキーは、流刑地で苦楽をともにした哲学者ベルジャーエフの思い出について書いている。白水社からベルジャーエフ全集が刊行されているが、ワノフスキーの書いた手記が第三巻付録の小冊子に掲載されている。

 

     食卓の上で銀のサモワールがじんじん音を立て、若くしとやかな夫人が、優しくえみをたたえてお茶をついでくれる。テーブルのまわりでは熱烈な議論がかわされ、そこにちょっとした気のきいた批評や意表をついた意見がドッと笑いを爆発させる。もちろんベルジャーエフは当時夢中になっていたカントを持ち出し、カントの観点からマルクスを批判した。(中略)ベルジャーエフは、わたしの頭にカントをたたきこんでくれた。(「流刑地のベルジャーエフ」) 

 

 ベルジャーエフは古参の党員であったにもかかわらず、ロシア革命後の現実に絶望し、ソ連共産党に距離を置いた。その結果、ソ連政府によって故国からの強制退去を命令され、フランスで亡命生活をおくることになった。パリには亡命ロシア人の共同体ができ、独自の思想文化が形成された。

 

 

      風景のなかの聖なる気配

 

 理工系の大学教育をうけているワノフスキーは、流刑地のヴォログダ州の行政機関で技術専門職のような待遇をうけている。三年ほどの流刑地暮らしのあいだ、学校、病院の建設や道路、橋の補修工事を計画立案し、現場を視察する仕事を任されているのだ。今日の感覚からすると、自治体職員のように働く政治犯というのは奇妙な存在だが、帝政ロシアの流刑はそのようなものだったのだろうか。回顧談は楽しげな筆致だ。

 

     わたしにとって仕事は、率直にいえば、何よりも国の費用で広大な郡の全域を馬で乗りまわし、ふと思いつくままに、あらゆる所で狩りができる可能性を与えられたことだった。冬になるとわたしは計画を立て(中略)、春の訪れとともにわたしの旅がはじまるのである。

     川は草原だけでなく近辺の林までも水で浸し、各地への連絡には馬ではなくボートを使わねばならなかった。ときには一週間もつづくことがあり、これは特に気に入っていた。このような旅のある日のこと、わたしははじめて野生の白鳥を見たのだ。彼らは音もなく静かに泳ぎ、同じメロディで歌っていた。ター、ター、タ-、音色はすばらしく優しく清らかで、何やら遠くへの思いや、この世のものとは思えない美しさを抱かせるものであった。わたしは小銃をかまえて近づいてはみたが、撃ちはしなかった。そして彼らの歌にうっとりと聴き入り、自由に飛び立つにまかせていた。(『夢追う人』)

 

 後年、ワノフスキーは日本の山や海に感情移入し、そこに神々の存在さえ見ることになるのだが、そうした気質はこの文章からもうかがえる。都会からはるか遠い流刑地の森林で彼の魂は風景のなかに溶け込み、自他の境界さえ、消えてしまいそうに見える。

 その後、多くの人がワノフスキーのことを詩人的であるといい、浪漫的であると評しているが、それが端的にあらわれているのは、風景のなかに聖なる気配を感知する能力である。そしてそれこそが、彼の火山神話論の源泉であった。

 これも日本人の感覚からすると奇妙な印象だが、ワノフスキーの流刑地暮らしは妻子をともなったものであった。妻のベーラ・ウラジミーロヴナは評判の美人であったらしいが、ヒューマニズムにあふれた有能な医者であり、ワノフスキーの同志として情熱的な革命家でもあった。

 

(『火山と日本の神話──亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』第二部「火山と革命」より)