共産党による一党支配が現実になったとき、ワノフスキーはそれを拒絶し、亡命者として日本に留まることを選んだ。故国ロシアは地上から消滅してしまったので、法的身分は「無国籍者」とされた。
なぜ、ロシア帰国を断念し、亡命者として生きる決断をしたのか。その理由について、彼ははっきりとした言葉をのこしていないが、関係者の証言によると、ボリシェビキへの敵対的な態度、言動によって、身体的な危険があったらしい。
日本に定住するまでの経緯は『火山と太陽』に書かれているが、それによると、日本で生活基盤を築くことは容易でないことがわかったので、アメリカ合衆国への移住を考え、ビザまで取得している。本稿の共同作成者である滝波秀子はこのころの状況について、ワノフスキーを直接知る人たちから聞いた話を総合してこう考えている。
「どうやら、ワノフスキーにはアメリカに住んでいる娘がいて、彼女が受け入れ先となるかたちでアメリカへの移住を考えていたようです。ところが、ロシアにいるワノフスキーの縁者に尋ねても、誰もがアメリカにいる娘など聞いたことがないと首をひねるのです。年齢的なことを考えれば、妻であったベーラとは別の女性とのあいだにできた娘かもしれませんが、いまだに本当のところはよくわかりません」
ワノフスキーはアメリカ移住の覚悟を固め、すっかり太平洋を渡る支度ができたのだが、アメリカにいる娘(?)のほうで、急に差し障りが生じたらしく、渡航は延期されることになった。
そうこうしているうちに、早稲田大学からロシア文学科を新設するので、講師として採用したいという誘いを受け、一九二一年(大正十年)四月、教員生活がスタートした。早稲田大学百年史に掲載されている大正十三年度の学科配当表によると、ワノフスキーが担当していたのは「近代散文演習」「写実劇発達の起点」の二科目で、そのほか、大学付属の旧制高校でロシア語を教えていた。専門分野については、ロシア語、ロシア文学、プーシキン研究、レールモントフ研究、ドストエフスキー研究などが記されている。
ワノフスキーには離婚したベーラとのあいだにオクサーナという娘がいた。一九二七年、オクサーナは日本に来て、二年ほど父親と同居していたので、彼女の証言によって、当時の雰囲気を知ることができる。
パパは東京の大学でロシア文学を教えていました。日本人たちはパパをとても評価していて、講義には学生だけでなく教授もいらしていました。(中略)
同じ日にパパの同僚たちが、その方たちは日本人の教授たちでしたが、もちろんお土産をもっておみえになりました。ある方は果物の籠を、ある方はお花を、またある方はそのほかの何かをお持ちになって。(中略)パパのお友達で大学教授のひろさんは、しょっちゅう私たちの家にみえていました。(『夢追う人』)
なれない異国での生活には不自由なことも多かっただろうが、大学の同僚たちとの親しくなり、それなりに充実した毎日であった様子がうかがえる。大学教師としての活動もちょうど軌道に乗っていたころで、オクサーナと暮らした二年は、亡命後のワノフスキーにとって最も穏やかな時間だったようだ。ソ連の政府当局によって、父と娘のあいだの手紙のやりとりさえ禁止されたその後のスターリン時代を思えば、監視はずっとゆるかったし、日本のほうも大正デモクラシーの余韻のなか比較的自由な雰囲気があった。
ワノフスキーの教員生活は二十年ほどつづき、一応、安定した生活基盤を築けていた。ロシア時代の彼は軍人であり、その前歴は職業的革命家であったので、大学教師としての生活は四十代後半、日本の大学においてスタートしたといえる。
戦前の早大露文科は多難だった。責任者の片上伸教授をはじめ教員の辞職が相次ぎ、少なからぬ学生が左翼運動にのめり込むという問題も生じ、一九三八年、閉鎖されてしまう。ただ、第二語学としてロシア語は維持され、ロシア文学研究という講座ものこったので、ワノフスキーの教師生活はつづいていた。
戦後、ロシア文学の翻訳者として活躍する鹿島保夫は、ワノフスキーにとって早稲田大学での最後の教え子となった。鹿島はロシア文学を学びたくて早大文学部に進学したが、ロシア文学科がなくなっていたので、国文科に籍を置きつつ、ロシア文学にとりくんでいた。
そんなわけで、ぼくは広い早稲田で唯一のロシヤ語学生になってしまつたのである。(中略)ぼくが一人きりの学生になると、先生[編者注 ワノフスキー]はわざわざ早稲田まで出てくるのがおっくうになられた。そこで話しあって、ぼくの方から神奈川県日吉にあった先生のお宅に一週一回ずつ伺うことになった。食糧に事欠かれていたにもかかわらず、おかゆをつくつてごちそうしてくれたりした。それから、日吉の山や畠のある街なかを散歩しながら、先生はぼくにロシヤ語を伝授された。ぼくはまた先生の買い物のお手伝いをしたりした。暮れのことだったか、正月用の数の子の配給があったとき、先生はぼくに、その調理法を訊ねられた。ぼくは、即座に、数の子というものはショウユで煮て食べるものであると答えた。あとで帰宅してから、その誤りを知って、あわてふためいて、もはや寝に就かれた先生におわびしたこともあった。(中略)
一人ものの老先生は靴下のほころびを隠すたびに、三枚も四枚もかさねてはく無精なはき方をされていた。いま、それと同じはき方をすることのあるぼくは、老先生をなつかしく想いおこす。(「戦乱期の文科生──ただ一人の露文専攻」)
早稲田大学のロシア文学科が復活するのは戦後の一九四六年だが、ワノフスキーはすでに七十歳を超えており教壇に戻ることはなかった。したがって、一九九七年に『早稲田大学露文科復活五十年の歩み』が出版され、学界関係者だけでなく、作家の五木寛之氏、三木卓氏など卒業生をふくむ文集が編まれたとき、ワノフスキーのことはほどんと書かれていないのだが、露文科教授の新谷敬三郎の思い出話として、ワノフスキーが登場する。新谷は戦後復活した露文科の一期生だが、戦前、早大の附属高校に通っていたとき、ワノフスキーからロシア語を習っていたからだ。「このメンシェヴィキの亡命者は、大正九年露文科が出来て以来の先生であった」と紹介している。
早稲田大学とワノフスキーのあいだでどのような取り決めがあったのかは定かではないが、政治的な言動、活動については控えてほしいという要請があったふしがある。だから、戦前の露文科での教え子たちは、革命家時代のワノフスキーの活動歴やレーニンやベルジャーエフとの交流についてあまり聞いていなかったのではないだろうか。そうしたテーマについて、ワノフスキーが手記を発表したり、講演したりするのは戦後になってからだった。日本社会に自由な空気が広がり、風通しのよくなった戦後の早大露文科でワノフスキーが教鞭をとっていれば、多士済々の学生たちとのあいだで思想的におもしろい交流が生じたかもしれないが、残念ながらそれは実現しなかった。
(『火山と日本の神話──亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』第二部「評伝ワノフスキー・火山と革命より」)